ラムリーザ・サーガ フォレストピア創造記

The Ramlyza Saga – Forestpia Chronicle


誘惑ごっこ、理性で中断

帝国暦九十二年 朧影の月・旅人の日(現代暦:四月中旬)

 この日、体育の授業が終わった後、ラムリーザとソニアの二人は後片付けを任されていた。授業で使ったバスケットボールをかごに集めて、用具室へ運ぶといった内容である。

 用具室は体育館よりも一段とひんやりしていて、樟脳とワックスと古いゴムの匂いが層になって漂っていた。

 積まれた跳び箱の合板には手垢で艶の出た縁、白墨の粉がうっすら。防球ネットの埃が光を細かく刻み、息をすると音が少しだけ響いて返る。

 別に日直だったとか、そういう理由があったわけではない。何を思ったのか、ソニアのほうから後片付けに立候補し、あろうことかラムリーザを手伝いに指名したのだ。

 運び終えた後、ふうと息をついて二人は目を合わせた。今は二人きりだ、と床板のきしみが告げた。

 その時何を思ったのか、ソニアはにこっと笑うと用具室に置いてあった跳び箱に飛び乗り、ラムリーザを手招きする。

 その誘うような動作にラムリーザは眉をひそめて言う。

「なんだよ、今度は何のイベントを模倣しているんだ?」

 そう、ソニアがまたゲームのイベントシーンを再現させようとしていると思ったわけだ。

「違うよー、ほら、学校じゃ二人きりになれることなんてほとんどないからさあ」

 つまり、この機会を利用して、誘っているわけだ。むしろ、二人きりになる機会を作り出すために、後片付けを引き受けたという意図があったのだろう。

 ラムリーザは、下宿している屋敷ではいくらでも二人きりになれるのだが、とも思ったが、ソニアのほうは学校でのこのシチュエーションを楽しんでいるのである。

 ソニアは腕を胸の下に回して、その大きな胸を抱え上げて見せる。するとその胸が体操着を持ち上げて、大きなふくらみを作り上げるのだ。

 いや、わざわざ腕を使って強調しなくても、その胸はロケットのようにつんと尖っていて、存在感抜群であるのだが。

 それでも、なんだかんだでソニアは自分の胸が武器になるということを理解しているようだ。普段は嫌がっているくせに、こういう時は遠慮なく使ってくる。むろん、ラムリーザにだけ見せる行動ではあるのだが。

 しょうがないな、乗ってやるかと考え、ラムリーザはソニアの胸に手を伸ばした。彼の指先が空気を切って近づき、布の起伏の手前で止まった。
              
跳び箱に飛び乗ったソニアが、ラムリーザを誘惑している場面
 触れれば崩れる境界線。ソニアは小さく肩をすくめ、いたずらな目で見つめる。

 呼吸が一拍、重なる。

 ラムリーザは息を整え、指を静かに引いた。

「いやいや待て待て、これはダメだろ」

 ギリギリのところで理性が勝った。

 跳び箱の革がきしみ、二人の間に置いた手だけが熱を残す。

「何がダメなのよー」

「こういうのは、家に帰ってからやろうね」

 ソニアは唇を尖らせてから、すぐに笑ってうなずいた。火は灯ったまま、距離だけを保てた。

 胸による誘惑に失敗したソニアは次の手段に出た。

 太ももの半ばまでの丈の靴下を、両足とも足首のところまでずり下げる。そしてむき出しになった脚をラムリーザに見せつける。体操着から伸びる脚が美しい。ソニアは自分の脚線美も武器になることを理解しているようだ。そしてラムリーザも、むしろこちらのほうが気になっていた。

 むき出しになった素肌に体育館の白い光がすべる。ラムリーザの視線が、布の縁から膝へ、そしてふくらはぎの細い陰影へと、音符をなぞる指のように移動する。

 だからラムリーザはそれを見て、思わず手がソニアの太ももへ伸びかける――が、触れずにとどまる。

 空気だけがかすかに肌を撫で、太ももの輪郭の外で指先が「境界」を確かめるようにひと呼吸だけとどまり、すぐ離れた。チューニング前の軽いタップ、そんな比喩が脳裏をよぎる。

「いや、待て待て、だからダメだってば」

 ラムリーザが囁くと、ソニアはつま先をきゅっと立てて短く息を吐いた。

「一瞬触ろうとしたじゃん。心は正直みたいだよ」

 そう言って、ソニアは笑った。

 二人の間に残ったのは、触れなかった温度と、家路で続きを持てるという無言の約束だけだった。

 ソニアはニヤニヤしながら、少し赤くなったラムリーザの顔を見る。今日のソニアは誘惑モードに突入していた。普段は――というより、これまでは見せてこなかった一面だ。

「だから学校でやっちゃダメだってば」

 屋敷の自室ならともかく、学校ではキス程度に……いや、キスすらちょっとまずい。せめて抱きしめるぐらいのほうがいいかもしれない。いや、それもまずいかもしれない。

「人が見ているところならやらないよ。でも今ここだと誰も見てないし二人きりでしょ?」

「もう一度聞く、これは何のイベントだ?」

「だからー、イベントじゃないってば! あのゲーム、もうやってないじゃない!」

 少し怒ったように言うソニアを見て、それなら本気なのか……と、ラムリーザは腕組みをしたまま口元に手を当てて考えた。

 欲望のままにソニアに飛びかかるか、理性的になるか。そもそも拒む道理はない。お互いの親も認めている結婚を前提とした付き合いをしているわけだし。

 ラムリーザは、親公認というところで、確か母と「清い交際をする」という約束をしたことを、ふと思い出した。すでにその話は反故にしているのではないか……と思う。

 それはもう過ぎたこととして脇に置くとして、こんなところを誰かに見られたら大騒ぎになるかもしれない。

「ほら、あたしがこんなにわかりやすいフラグを立てているのに、なんで気がつかないかな?」

「フラグ? 今フラグと言った?」

 その言葉でラムリーザは理性的な考えが蘇った。やっぱりゲームじゃないか。

 

・ソニアの誘いに乗る

・ソニアの誘いを断る

 

 つまりこういうことだ。

 今の状況をゲーム的に考えると、すでにソニアルートには入っている。というより、ゲームによっては、すでにエンディングまで終えているとも言えるだろう。例えば先日までソニアがプレイしていたドキドキパラダイスなどではそうなる。

 その言葉で、ラムリーザの頭のスイッチが入った。

 清い交際、親の前でうなずいた自分。見られたら終わる場所。ゲームならすでにエンディング後。――なら、逆を選べ!

 だからここは、あえて真逆の選択肢を選ぶことにする。

「残念ながら、そのフラグは叩き折ることにした。今は誘いには乗らないぞ、俺様は忙しいのだ」

 ラムリーザはニヤッと笑って、腕組みをして一歩下がる。なんだか自分でもキャラが変わったような気がするが、誘惑ソニアもキャラが変わっているので態度は十分これでよい。

「ちっ、テンプテーション失敗」

「見切りスキルを持っていたようだな」

「むー、そんなにあたしは魅力ない?」

「魅力のない女の子を選ぶほど、僕は物好きじゃないね」

 ラムリーザの返答にソニアは嬉しそうな表情を浮かべるが、魅力のあるなしの話ではない。何事も時と場所をわきまえなければならないのだ。

「ほら、こんなところで道草を食っていたら次の授業が始まっちゃうよ。早く教室に戻って着替えないと」

「そっかー、そうだね」

 そこでようやく、ソニアは無理にやらなくてもいい誘惑を諦めたようだ。

 腰掛けていた跳び箱からぴょんと飛び降りると、スタスタと用具室を出ていく。ラムリーザも用具室の扉を閉めて後を追った。

 

 体育館から校舎に通じる渡り廊下を、ソニアの後について歩いていたラムリーザはあることに気がついた。

「そういや、ソニア」

「なぁに?」

 先を歩きながら、顔だけ振り返るソニア。

「なんつーか、その靴下は直したほうがいいと思うぞ」

 先ほどずり落としたままで、足首のところでモコッとなっている。昔はそんなことはなかったのだが、最近のソニアは服装に無頓着なところがあった。もっとも、普段着でソニアが靴下を履いているのは、最近では見かけたことがなかったのだが。

「んー、いいの。あたしもこのほうがいいし、ラムもあたしの生足を見ることができてうれしいでしょ?」

「うれし――じゃなくて、そういう問題ではないんだけどな……」

 ラムリーザは、ソニアがそう思っているのならとやかく言うのはやめにした。ソニアの言う通り、生足が見られて「うれしラムリーザ」とでも返してしまいそうになるのも事実なのだから。

 しかし、ボタンが留まらないからとはいえ、リボンもつけられず、制服の着こなしは乱れている。

 渡り廊下を抜ける角で、掲示板に貼られた「服装・所持品の基準」が、風にぱらりとめくれた。

「靴下はたるませずに、ブラウスはボタンを留め、リボンを着用」と赤線で記されている。

 ソニアは「ふんだ」とつぶやいて素通りしたが、遠くで女子生徒が一瞬こちらを見て、手元のメモに何かを書きつけたのが、ラムリーザの視界の端に入った。

 教室の戸口では、真面目そうな女子が友人に小声で「最近、風紀巡回が強化されたらしいよ」と囁く。

 それを聞いたラムリーザは「直したほうがいい」ともう一度言いかけて飲み込む。言えば拗ねる、それもわかっている。

 足元でずれた黒がまた小さく波打つ。巨大な胸に阻まれて開いた襟元、結べないリボン、ずり落ちた靴下。今はただの「彼女の誘惑のなれの果て」にすぎないが、どこかで境界線を踏み越える音がした。木霊のようなその予感だけが、彼の背中に薄く貼りついた。

 だから、これ以上服装の乱れが目立つのは、あまりよくないのではないかな……と思いながら、ソニアの後を追って教室に戻っていった。

 それでも、今日はこれ以上ソニアが誘惑してくることもなく、平穏に一日が終わったのだった。

 ラムリーザがそう思いかけたところで、帰り際の廊下の掲示板に赤チョークの細い字が書き足されているのを目にした。

 

 服装点検、近日予定

 

 ソニアは相変わらず靴下をくしゅっとさせたまま、振り返って笑う。

「ね、明日も一緒にどこかへ行こう」

 ラムリーザは「もちろん」とだけ答える。

 窓の外で、夕風が校庭の旗を一度だけ鳴らした。まるで、まだ始まる前のカウントみたいに。